(撮影2012~)
1.釜石市の地名説について
アイヌ語の「チェプ・クマ・イシ」が省略されて「カマ・ウシ・イ」(意味は、平盤岩がある所)と「クマ・ウシ・イ」(意味はサケ干し竿の干場が多くあるところ)の2つの解釈があります。*アイヌ語説以外にも和説もあります。
サケの豊富な時代、甲子川の河口には、サケ干し竿の干場があちらこちらにあったと考えられます。嬉石の海岸に大きな「平盤岩」を確認したという方もいらっしゃいます。
2.江戸以前の「鉄」について
明治以後の釜石の「鉄」については、歴史的な資料が多くあるのですが、それ以前の確かなデータは、かなり少ないです。古地図の正保国絵図(江戸幕府が諸大名に命じて作らせた絵図)には江戸の街道があります。その中に釜石から盛岡や平泉へ通じる道は、釜石~遠野までの釜石街道と鵜住居~遠野までの笛吹峠道があり、遠野からは花巻までの街道(私自身の調べでは、街道名が未だ判明していません)があります。笛吹峠道沿いには、世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成遺産で「橋野高炉跡」があります。そして平泉片岸で鍛冶関連遺構が出土し12世紀またはそれ以前とされています。奈良・平安時代には東北沿岸部の砂金・鷹の羽・昆布を朝廷に献納した記録があります。
3.江戸後期から現代まで
小さな漁村であった釜石。1858年、盛岡藩士大島高任(おおしまたかとう)は、「大砲鋳造に適した銑鉄」の製造を目的として洋式高炉を建設しました。その後、釜石市は、「製鉄と漁業」の町として栄えていきました。1964(昭和39)年のオリンピック景気で建設需要の高まった最盛期、人口が9万人を超えたそうです。その語、人口が減少していきました。2011年の東日本大震災で、甚大な被害があった釜石市は、活力のあるまちづくりを目指しています。