(2013~)
2005年(平成17年)桃生郡矢本町と鳴瀬町が平成の大合併により東松島市が発足しました。
東日本大震災の津波で死者は1000人以上、住宅の3分の2以上が全半壊しました。
仙台平野(北部)は、昔から、大雨や台風のたびに洪水が起こり水害が絶えないところでした。
初代仙台藩主の伊達政宗公は、仙台城下の水不足解消と水害防止の治水整備を川村孫兵衛に命名し、北上川や広瀬川、江合川、迫川の整備(1616年~1626年)が行われました。悲願であった新田開発も進み、江戸へ米を送り出せるようになりました。昭和から平成にかけて、ササニシキ、コシヒカリ、ひとめぼり、つや姫のブランド米を供給し続けています。
江戸時代初期には、行徳から入浜式塩田が導入されました。野蒜塩田と渡波塩田(石巻市)は有名で渡波塩田(石巻市)は仙台藩最大の塩田でした。1905年(明治38年)に、日露戦争の軍費調達目的の国の塩専売制が実施されました。戦後も塩業整備や改革が重ねられ、1992年まで塩専売制度が続いていました。野蒜塩田や渡波塩田(石巻市)は、昭和30年代まで続いていたそうです。
1878年(明治11年)の明治の東北最大のプロジェクトの野蒜築港計画(外港)建築がはじました。計画は、飛行機の無い時代の近代築港(貿易港)、岩手、宮城、福島までの運河・鉄道・道路の新設も行う水陸の物流ネットワークです。事業は1878年(明治11年)から4年後に内航地区が完成しましたが、その3年後の台風で内港の突堤が破壊され外港としての野蒜築港は断念されました。その内航地区の運河は、貞山運河の一部で、東名運河と北上運河です。松島湾から鳴瀬川迄を東名運河と呼び、鳴瀬川から北上川までを北上運河と呼び、現在も残っています。
野蒜築港に伴い多くの労働者が集められ、埋め立て地にできた町、野蒜新町は栄え賑いました。その様子が民謡にも歌われ続けてきたそうです。
野蒜駅ができたのは1931年(昭和6年)です。観光開発で野蒜不老山海水浴場(現:野蒜海水浴場)、海水浴プールやホテル、接待を伴うお店も開業されました。
1000年に一度といわれる2011年の東日本大震災の天災では、歴史や地形を読み直し、教養を得て、後世に伝えられるワークが求められています。